第3章 量子力学

波の重ね合わせから運動を求める

「1本の確かな線」から、「無数の波の重なり」が織りなす現実へ。

ニュートン力学と解析力学が積み上げてきた古典物理学は、「物体の軌道は1本に決まる」という前提に立っていました。
ミクロの世界に潜ると、この前提が崩れます。粒子は1本の道を進むのではなく、すべての道を同時に通る波でした。解析力学が用意した舞台の上で、その姿を見ていきます。

量子力学が初めての人へ

この章は、量子力学を第2章の解析力学の言葉で見直す章です。
量子力学に初めて触れる場合は、実験の順に追いかける入門編「量子力学の誕生」を先に読むと、ぐっと読みやすくなります。

3-0量子力学とは何か(思想と本質)

「決まった軌道」から「波の重なり」へ

第1章の最後で、ラプラスの悪魔にたどり着きました。位置と運動量が分かれば、未来の軌道は1本の線として完全に決まる。
第2章の相空間は、その線を地図の上に描いたものでした。

量子力学は、この前提を根本から覆します。

  • 古典力学 — 粒子は、あらかじめ決まった1本の軌道の上を動く
  • 量子力学 — 粒子に決まった軌道はない。観測されるまでは、あらゆる可能性が波として重なり合って広がっている

物理学の主役は「1本の軌道」から、可能性の重なりを表す波——波動関数へと移ります。

ただし序章でも触れたとおり、波動関数そのものは方程式に従って決定論的に時間発展します。
確率が顔を出すのは、その波を観測して結果を読み取るときです。どの結果がどれだけの確率で出るかは、波の振幅の2乗で決まります。

解析力学と量子力学の1対1の対応

第2章で見た解析力学の2つの形式は、実はそのまま量子力学の2大アプローチにつながっています。

解析力学の2つの形式と、その子孫。(横にスクロールできます)
解析力学 量子力学 鍵になる量
ラグランジュ形式 ファインマンの経路積分
作用を使って、すべての経路を足し合わせる
作用 S
ハミルトン形式 シュレディンガー方程式
ハミルトニアンを使って、波の時間変化を追う
ハミルトニアン H

解析力学という数学の足場があったからこそ、物理学者たちは量子力学という不可思議な世界に言葉を与えることができました。

歴史的には、シュレディンガー方程式(1926年)のほうが経路積分(1948年)よりずっと先に生まれています。
それでもこの章で経路積分を先に扱うのは、第2章が残した謎に直接答えるのが経路積分だからです。

3-1経路積分(すべての経路を通る波)

【問い】なぜ粒子は、作用が停留になる経路をあらかじめ知っているのか

第2章の最後に残った謎を、もう一度確認します。

空中を飛ぶボールは、飛び立つ前から、始点と終点の間で作用が停留値をとる放物線を知っていて、その経路を選んでいるように見える。
最小作用の原理は、計算結果としては完璧でした。けれど「なぜそうなるのか」には答えていませんでした。

この問いに答えたのが、リチャード・ファインマンの経路積分です。

作用の正体 — 矢印の回転角

ファインマンは、自分の考えをストップウォッチの針にたとえて説明しました。

粒子が始点から終点まで1本の経路をたどると、それに対応して1本の矢印が決まります。矢印の長さはどの経路でも同じで、違うのは向きだけ。
その向き、つまり回転角が、経路の作用を で割った値 S/ です。

eiS/

1本の経路が持つ矢印(複素数平面上の長さ1の矢印)。向きが S/

(エイチバー)はプランク定数を 2π で割った値で、およそ 1.05×10−34 J·s。作用と同じ単位を持つ、量子力学の「目盛り」です。

解析力学で「経路の値段」として計算していた作用は、量子力学では矢印をどれだけ回すかを表す量だったのです。
作用と波の位相を結びつける発想自体は、1933年にディラックが論文の中で示していました。ファインマンはそれを、計算できる理論にまで仕上げました。

すべての経路を足し合わせる

ファインマンの主張はこうです。
粒子は、始点と終点を結ぶあらゆる経路を、同時に通っている。

まっすぐな道も、ぐにゃぐにゃ曲がった道も、とんでもない遠回りも。決められた時間で始点から終点へたどり着く経路なら、すべてが候補です。

そして、すべての経路の矢印をつなぎ合わせて足す。できあがった1本の矢印の長さの2乗が、粒子がその終点で見つかる確率になります。

振幅=すべての経路eiS/,確率=|振幅|2

経路ごとの矢印を足し、最後に長さを2乗する。

経路は無数にあるので、実際には和ではなく積分になります。これが「経路積分」という名前の由来です。

なぜ日常の世界では放物線に見えるのか

すべての経路を通っているなら、なぜ投げたボールはぐにゃぐにゃ飛ばずに、きれいな放物線を描くのでしょうか。
鍵は、矢印の打ち消し合いです。

  • 放物線から外れた経路 — 経路を少しずらすだけで作用が大きく変わり、隣り合う経路の矢印がてんでばらばらの向きを向く。足し合わせるとぐるぐる回って打ち消し合い、ほとんど何も残らない
  • 放物線のまわりの経路 — 作用が停留値をとる経路のまわりでは、経路を少しずらしても作用がほとんど変わらない。隣り合う矢印がそろった向きを向き、足し合わせると強め合って長い矢印が残る

第2章で、最小作用の原理は最小であることではなく、まわりとくらべて変化しないことが効いていると書きました。その理由がここにあります。
変化しないから、矢印の向きがそろう。そろうから、そこだけが生き残る。

数字で見てみます。
1秒で上がって落ちてくる野球のボールの作用は、大きさにしておよそ 0.6 J·s。これを で割ると、矢印の回転角はおよそ 5×1033 ラジアンになります。
経路をほんのわずかずらして作用が 10−30 J·s 変わっただけでも、矢印は約1万ラジアン回ってしまう。放物線から少しでも外れた経路は、たちまち打ち消し合いの渦に飲み込まれます。

一方、原子の中の電子では、作用が と同じくらいの大きさしかありません。
矢印が十分に打ち消し合わないので、1本の線に絞り込まれず、波としての性質がそのまま表に出てきます。

作用にくらべて が無視できるほど小さい極限を古典極限と呼びます。この極限で、量子力学はニュートン力学に一致します。
私たちが日常で見る放物線は、無数の経路の干渉を勝ち抜いて生き残った、いちばん太い束の残像だったのです。

3-2シュレディンガー方程式(演算子と状態)

変数から演算子へ

経路積分がラグランジュ形式の子孫だとすれば、ハミルトン形式の子孫はもう一方の量子力学です。
ここでは、衝撃的な置き換えが行われます。

第2章では、位置 q と運動量 p は相空間の座標、つまりただの数でした。
量子力学では、これらが波に働きかける操作(演算子)に姿を変えます。区別のため、記号の上に ^ を付けます。

  • 位置 q^ — 波に、その場所の座標を掛ける
  • 運動量 p^ — 波を場所で微分して、i を掛ける
p^=iq

運動量は、波の空間的な揺れ具合を測る操作になる。

ただの数どうしなら、掛ける順番を入れ替えても答えは同じです。ところが演算子では、順番を入れ替えると結果が変わります。
実際に波 ψ に作用させて確かめてみましょう。

q^p^ψ = q(iψq) = iqψq p^q^ψ = iq(qψ) = i(ψ+qψq)

4行目は積の微分。ψ の項が1つ余分に出る。

q^p^ψ から p^q^ψ を引くと、qψq の項が打ち消し合い、ψ だけが残ります。

(q^p^p^q^)ψ=iψ,[q^,p^]=i

正準交換関係。

掛ける順番を入れ替えられない。この性質が、あとで見る不確定性の源になります。

第2章で「位置と運動量の対等なペアこそが、第3章で演算子に姿を変える直前の形」と書きました。
そのペアはここで、順番を入れ替えると i だけずれるペアに生まれ変わったわけです。

【一歩先の視点】ポアソン括弧と正準量子化

古典力学にも、この交換関係にそっくりな構造がありました。ポアソン括弧です。

{f,g}=fqgpfpgq

ポアソン括弧。

位置と運動量を入れると {q,p}=1 。さらに正準方程式は、どんな量 f についても f˙={f,H} という1本の式にまとめられます。

ディラックは、この古典の括弧を「交換子を i で割ったもの」に置き換えれば量子力学になることを見抜きました。

{q,p}=1 [q^,p^]=i f˙={f,H} dA^dt=1i[A^,H^]

左が古典力学、右が量子力学。上は正準交換関係、下はハイゼンベルクの運動方程式。

解析力学の骨組みは、量子力学に上書きされたのではありません。記号を置き換えただけで、そっくり受け継がれたのです。

シュレディンガー方程式 — ハミルトニアンが波を動かす

ハミルトン形式の中心は、全エネルギー H=K+U でした。
運動量を演算子に置き換えると、これも演算子になります。それがハミルトニアン H^ です。

H^=p^22m+U(q)=22m2q2+U(q)

運動エネルギーの運動量を演算子に置き換えると、2階微分が現れる。

このハミルトニアンを使って書かれるのが、量子力学の基本方程式です。

iψt=H^ψ

シュレディンガー方程式(1926年)。

  • ψ(波動関数)— いま、どんな波として存在しているか
  • H^(ハミルトニアン)— 波を未来へ進めるエンジン

第2章では、全エネルギー H のガイドに従って、相空間の点が流れていきました。量子力学では、同じ H が今度は波を未来へ押し流します。
ハミルトン形式が描いた「エネルギーが状態を動かす」という像は、そのまま波の時間発展として引き継がれています。

そしてこの方程式は、いまの ψ が決まれば未来の ψ を一意に決めます。
決定論は、軌道の上ではなく波の上で生き残っているのです。

不確定性原理の正体

位置と運動量を、同時にいくらでも正確に決めることはできない。これが不確定性原理です。

ΔqΔp2

位置のばらつきと運動量のばらつきの積には、下限がある。

序章でも書いたように、これは測定機器の性能が悪いからではありません。粒子が本質的に広がりを持つ波であることの帰結です。

ド・ブロイの関係 p=hλ によれば、運動量は波長で決まります。
波をある1点に鋭く絞り込もうとすると、さまざまな波長の波を重ね合わせる必要がある。すると波長、つまり運動量がばらつく。逆に波長をひとつにそろえると、波は空間全体に広がって位置が決まらない。
位置を絞れば運動量が散り、運動量を絞れば位置が散る。これは波という数学的な対象そのものが持つ性質です。

交換関係 [q^,p^]=i から、この不等式を直接導くこともできます。順番を入れ替えられない2つの量は、同時にぴたりと値を持つことができないのです。

ラプラスの悪魔が要求した「すべての粒子の正確な位置と運動量」は、こうして原理的に存在しない入力になりました。

第3章のまとめ

古典力学と量子力学。(横にスクロールできます)
  古典力学(ニュートン・解析力学) 量子力学
物体の状態 位置 q と運動量 p(相空間の1点) 波動関数 ψ(広がりを持つ波)
運動の決まり方 作用が停留になる1本の経路をたどる すべての経路を同時に通り、波が干渉する
物理量の扱い ただの数 状態に作用する演算子
古典力学の位置づけ 基本法則そのもの 作用が よりずっと大きいときの極限

3-3全体のまとめ(物理学の1本のストーリー)

序章で、投げたボールの放物線を3つの視点から並べました。
3つの章を読み終えたいま、その意味がはっきりします。

3つの視点、ふたたび

  • 第1章 / 局所の視点

    ニュートン力学 — 瞬間の力を見る

    F=ma を空間と時間で積算して、エネルギーと運動量という「まとめ算」を手に入れた。
    そして、位置と運動量が分かれば未来が決まるという決定論にたどり着いた。

  • 第2章 / 大局の視点

    解析力学 — 経路の全体を見る

    力を脱ぎ捨て、エネルギーと運動量を主役にした。作用が停留になる経路を選ぶ、という最小作用の原理を打ち立てた。
    ただし「なぜ停留なのか」は、謎として残った。

  • 第3章 / 根本の視点

    量子力学 — すべての経路を見る

    すべての経路を通る波が干渉し合い、作用が停留になる経路のまわりだけが生き残る。
    そこに、ニュートン力学の放物線が立ち現れることを解き明かした。

結び

物理学の歴史は、古い法則を捨てて新しい法則で上書きしてきた歴史ではありません。

ニュートンが描いた「力と運動」は、解析力学によって「作用が停留する経路」へと書き直され、量子力学によって「無数の波が織りなす干渉の残像」として、もう一度説明し直されました。
どの段階でも、前の理論は間違いとして捨てられたのではなく、より深い理論の近似として、正しい居場所を与えられています。

あなたが投げたボールが描く放物線。
それは、あらゆる経路を通った波が互いに響き合い、打ち消し合った末に残った、たった1本の線なのです。

もう一度はじめから

序章 物理学は、一度完成した

3つの章を読んだあとで序章に戻ると、ラプラスの悪魔も、居心地の悪い問いも、違って見えるはずです。